私の慶應義塾大学受験
初ブログ投稿は、大学受験について語ろうと思います。私は慶應義塾大学1年生。
時が経つというのは早いもので、1年生の春学期秋学期は終わりを迎え、今は2か月という長い春休みを過ごしている。
本日2月14日は、慶應の入試日なんですね。
受験当日を思い出すなあ……なんて言いたいところですが、特に言うこともない。試験当日緊張しなかった、などそういうことではありません。単に私は受験をしなかったのです。
そう、私は一般受験組ではないということだ!(そうなのか!!工藤!)
しかし、いくら受験しなかったとは言っても、全く緊張しなかったわけではない。第一志望ということもあり、試験日は把握していた。それにバレンタインですし!覚えやすい!そういや、今日はバレンタインではないか!忘れていました…。まあバレンタインなど、外に放っておくとして、大学受験について話を戻します。
そう、いくら受験をしないとはいっても緊張はしていました。緊張といっても試験時間帯は家でボーっとしていただけなのですが。一般受験でないのなら、どのような方法なのか。
この世で一番嫌われている受験方法だと思われる方法です。
それは……指定校推薦だ!!
指定校推薦とは高校3年生の9月に校内選抜が行われ、推薦者を決定し、ほぼ100%合格といわれる入試方法です(指定校推薦の時期などは大学や高校によると思います)。私の高校では9月後半に校内選抜が行われ、大学からの正確な大学通知は12月に届きました。校内選抜で選ばれた際の喜びは今でも鮮明に憶えています。
私は自分に自信が無く、絶対に自分が選ばれるわけがない、
宝くじを買った気持ちでいました。
そのため、指定校推薦で申し込んだことは軽く忘れており、校内選抜の結果の通達時期・方法など全く知らなかったのです。その当時の私は、スマホを絶つために、携帯を段ボールに入れ、ガムテープでグルグル巻きにし、庭に埋めていました。校内選抜発表の日、家には誰もおらず、私は家で勉強していました。いつも通りの日常を過ごしていたら、
母が急に用事先から帰宅し
「担任の先生からお電話があったよ!大事な話みたいだから早く折り返しなさい!私はもう行くから!」と息を切らしながら、帰ったと思ったらすぐにまた出かけて行った。
私は「あー面倒だなあ」なんてつぶやきながら、庭に埋まっているスマホを掘り返した。スマホは無事で、担任からの大量の通知が入っており、これはただ事ではないと感じた。そして、すぐに折り返した。
この時の私の考えには「この時期での急ぎの連絡。もしや、指定校の話ではないか」という考えが浮かんでいた。「まあ落ちているだろうな」という思いでけだるそうに電話をした。
担任の第一声は「最近どう?」「勉強大丈夫?」といったもので世間話であったので、これは単に生徒が心配で一人ひとりに電話をかけているのだと思った。
しかし、世間話が終わったあたりで話の内容がガラリと変わった。
「そういえば、〇〇さんの志望校って慶應義塾大学商学部でいいんだよね?ずっと法学部志望だったよね?志望校欄も全て法学部だよ。指定校は商学部だけど本当に大丈夫?指定校ってなにか理解してる?指定校を受け入れると、途中でやめることができないんだよ。本当に分かってるの!?」と何度も何度も確認された、
それも若干イライラしながら。
これは至極当たり前のことだと思う。指定校とは本当に行きたいと思う大学に申し込むものだからだ。
しかし、当時の私はとにかく慶應に行きたい、慶應に行ければ学部など何でもいいという考えだったので、先生の返答には「もし、指定校推薦の枠がいただけるのならば、喜んで行きます」「泣いて喜びます」と少しイライラしながら答えた。
イライラしていた理由には、どうせ落ちているのになぜこんなにも確認するんだ!?!勉強させてくれよと考えていたからだ。しかし、いや待てよ、こんなにしつこく確認されるということはもしかして、もしかしてだけどお~(どぶろっく)校内選抜が通過したのではないかという考えが頭をかすめた。
この考えをかすめた直後、担任の先生の声が突然やわらかくなり
「おめでとう!慶応義塾大学の校内選抜に通りました!そのお電話です!」
と受話器から聞こえた。
それは突然すぎて、今さっきまで受験勉強をし、不安に押しつぶされそうになっていたのに、
「慶應」という大きな大きな存在が、遠すぎて見えなかった存在が、
突然手の届きそうな場所に現れたことに驚いた。
私の反応は「え~…本当ですか!嬉しいです。先生ありがとうございます。先生が今まで支えてくれたおかげです。本当にありがとうございます。」という反応だったと思う(自分がなんといったか忘れてしまった)。
しかし、この時の私は指定校推薦の制度を全く理解していなかったので、校内選抜で選ばれた=実質的合格となっていなかった。私の頭の中では校内選抜はあくまで、高校内の選抜であって、さらにうえに選抜があると思っていた。そのため、担任に「第一関門突破したんですね!」など意味不明なことを言ってしまった。
担任も意味がわからなかっただろう…。この世にありもしない、校内選抜のさらに上の選抜に向けた対策をするために、インターネットで情報を調べたが出てこない。実質的合格だと書いてあるWebページがある。
混乱した私は、塾の先生に電話して聞いてみることにした。
私「あの、指定校推薦の校内選抜に選ばれました。システムがよくわからなくて。合格ということですか?」
塾「あーそうなんだ。まあほぼ合格だよ。
落ちることは犯罪とか犯さない限りないと思うよ」
私「えー-----!(この時に初めて、合格したのだと気づく嬉しすぎて絶叫)」
塾「え?なに?嬉しくないの?(嘲笑)ところで何大学?」
私「慶応義塾大学です」
塾「・・・・・。そうなんだ」
私「ありがとうございます、では」
といい、すぐに母に電話をした。
その際の私は家中駆け回り、回し車を懸命に走る気持ちになっていた。
母は車を運転中で止めて電話に出てくれた。
二人して絶叫した。
慶応義塾大学は小学生の頃に「ビリギャル」を見て以来、我が家にとって憧れの存在であったからだ。
母にはすぐに報告したが、父には2週間遅れで報告した。
当時、私は父のことを反吐が出るほど、嫌いだったからだ。
「父が病気にならないか、事故に遭わないか、消えてくれないか」
と毎日願っていた。
今現在もそう願っている。
教育を金銭的に保護してくれたことにはもちろん感謝している。
私が慶應に受かっても、自己肯定感が低い理由は両親、主に父にあると考える。
なぜなら、父は私が慶應に受かったことで、私に対する態度が180°変わったからだ。
それも分かりやすすぎるくらいに。
高級ブランド、高級車の新車を都内で見せびらかし、大きな走行音を立てているように。
圧倒的に優しくなったのだ。
私に対しても、母に対しても。(まるで映画ビリギャルのエンディングのように)
昔、頼み事をしたら、外であろうが旅行中であろうが、大声で怒鳴られた。
そして、人格否定。
「お前は幸せだぞ?」
「こんな旅行を連れてきてもらって、幸せもんだぞ?」
「誰のおかげでこの幸せなんだ。わかっているのか?」
「俺の言うことを聞け。お前には中国人の血が流れている。
だから、バカなんだよ。」
「写真を見たり、私の顔を直接見てきて、あー可愛くないな。
(テレビを)見ろ。女優さん、子役を指さして、あの子は可愛いな。
お父さん、あの子が好き。〇〇(私の名前)よりかわいい。」
「〇〇って幽霊みたいだよな。」
実は私は日中ハーフなのだ。
人種差別はどちらの国でも経験がある。街中、学校で、だ。
そして、家の中でも行われるのだ。
私が中国の民謡を口ずさめば、怒鳴り声が聞こえる。
「だまれ!!!!!!!!!」
腕をつかまれ
「しゃべるな!!!!!!!ここは日本なんだよ!!!!!!」
それは耳をふさぎたくなるような音量で。
そして、二人きりの車中で、マナーの無い中国人の話を永遠と聞かされる。
まるで「お前はそいつらと一緒なんだよ」と言っているように。
父だけではなく母もまた人種差別的発言をする。
「お前は日本人だから、気遣いができないのだ」
「お前には日本人の血が流れている」と嫌悪を含んだ目で見られた。
実際、私自身、小学生の頃、
「ヒトデナシ」だった。
当時は父の味方をしており、父の異常性、モラハラ気質、経済DVを母に対してしていることに気付かなかった。
母は父の態度で、鬱になったり、ヒステリックになったりなど
常に不安定であった。
私が父の異常性に気づき、人間性を取り戻した出来事がある。
それはまた話す。
結論を申しますと、
私は慶應に入り、自己肯定感の無さに初めて気づいた。
同時に、自己肯定感は学歴、功績が一部分として全く機能していないと気が付いた。
慶應に入ったとして、自信は全くない。(慶應生だぜえ、という歪な自信ならある)
今までは学校内で成績が良く、自己肯定感の低さを見て見ぬふりをしていた。
それで隠し通せていた。
しかし、慶應に来て、
賢く、性格も良く、なんでもできる人達に
(たゆまぬ努力をしていることはわかっている。しかし、傍目、遠くから見ていてそう感じるのだ)
出会った。友達になった。そういった人たちが大多数だった。
そこで、人と比べ、自分の存在価値が見いだせなくなった。
一人暮らしを始め、自問する時間が増え、幼い頃の封印した記憶のフラッシュバックが止まらない。つらい。誰かと暮らしたい。満たしてほしい。彼氏が欲しい。私を満たしてくれる。存在価値があると言ってくれる、そんな人が欲しい。